北の光を辿る犬


|世界樹のマールと底なし湖から来たサビ|
サビは底なし湖を漂う浮島の家で生まれ育った。
サビが小さな大人ではなくいっぱしの大人の仲間入りをするとすぐ
縁談が持ち寄られ本人をおいてけぼりに、伴侶選びで盛況になった。
けれどもサビは自分で選びたかったので、音も立てずに浮島の一角を家から切り離した。
伴侶を自分で見つけられないなら、生きていなくていいとさえ思ったのだ。
そうして波に任せていると世界樹の根元にぶちあたった。
「誰かいるんだろう」
マールが声をはりあげた。
世界樹の一番下の枝からロープをおろし、ブランコをこいでいたマールは
幹を蹴るのをやめて霧の水面に目を凝らした。
サビは浮島の欠片からのびあがって手を挙げた。
「はじめまして」
そしてマールはブランコに腰掛けたまま、サビは立ちあがったまま、ふたりでたくさんの事を話した。
太古の海に潜る鯨の尻尾や、世界樹のまわりを楕円に巡る黄色い月や、南南東枝71東区では性別適合手術を受けられるとかそういう話たちだ。
マールの鋭い洞察力と優しさに触れてサビは夢中で話に聞き入った。このひとと一緒に幸せになりたい。
マールは世界の外からやってきた不思議なサビに心奪われた。このひとと一緒なら楽しい暮らしになるだろう。

マールは青年になってしばらく経っていたがサビはマールから見ると少年から抜けたばかりに思えた。
サビは尻尾で戦う種族だ。2本の尻尾のうち1本は蛇になっている。光沢のあるうろこをくねらせ威嚇して、噛みつく。一時的な神経毒だ。
世界樹の北北西枝25中央区で育ったマールは理論で戦う種族だ。尻尾は2本とも蛇になっていない。
サビが親愛の証に、マールの尻尾へ頸筋を差しだしても意図するところは伝わらない。
なにをしてるんだいとマールは笑った。
信頼と服従をあらわすにはどうしたらいいのかサビが尋ねるとマールは困った顔をして、特別な敬愛ならこれでいいんだよと
サビの頬にキスをした。
サビは真似してキスを返した。
幼児、少年、青年、壮年と年齢によって価値観が変わっていくのがマールの文化だ。
対してサビの文化では生まれ持った性質を保持するのが主流だ。
その性質は似通っている。大切なものを守りたいなら、自分の誇りのためにも素早く戦え。

幾重にも連なった枝のあいだから細長く滝が落ちている。
飛沫がかからない程度に離れたところで見物していると物珍しいサビを連れたマールを、知らない輩が指さして嗤ったので
サビはためらいなく尻尾で噛みついた。
褒められるとは思わなかったが責められるとは予想外だった。
マールはサビの腕を掴んで少し怖い顔をしてみせた。
「理論以外で戦うなんてしてはいけない、実力行使はやめなさい」
サビは戸惑った。それではこの尻尾はどうすればよいのだろう。世界樹には尻尾で噛みつく種族はいない。
北北西枝25中央区では特に暴力とみなされて忌避される。
サビは蛇の首根っこのうろこをてきとうに齧りながら肯いた。
「わかった、もうやらないよ」
「いいこ!」
マールに褒められてサビはとっても嬉しくなった。
世界樹のそこで暮らすうちに種族の常識がマールを通してサビに浸透する。
10年かけてだいぶサビはマールに似通った価値観を持つようになった。生来頑固で不変な種族のサビにとって変化は努力の結晶と言える。
文化に馴染んだとおもっていたのだ。
しかし10年経つとマールの年齢とともに考え方が変化する。サビはそこまでわからなかった。
以前は共に笑って話せたことを、マールはひそめてたしなめる。
どうしてゆきちがってしまっただろう。サビは悲しくなった。それならひび割れた溝を埋めなければならない。一刻も早く。
自分を変容させるこつを多少なりとも身につけてきた。
もこもことした苔が枝の通路に生えている。
爪先が葉っぱになったり、羽毛になったり、雲母になったりして歩きづらいがそれももう幾ばくかの辛抱だ。
あるべき様に変形し終わるまでのことだ。
サビは話題や振る舞いに慎重を期す。
誇り高く好戦的な年代は終わったんだ、これからは友愛と平和の年代だ。マールは説明してくれた。
サビにはいまいち、年代が終わったの意味がわからない。友愛と平和もわからない、けれどマールが言うのならサビはきっちり聞くまでだ。
マールが一群をさし示した。
「それからあれは敵じゃない」
「うん、マールが言うなら敵じゃない」
熱くけぶる戦いの気概を押し殺す。無かったことになってほしい。生まれ備えた文化をひねりつぶした。
この尻尾も切り落としてしまおうか、いやそれはなんだか誤解されそうだ。
最優先させるべきはもっと違う大切なものだ。マールが大好きだ。ずっとマールと一緒にいたい。
「なにもお前が憎くて言うんじゃないよ」
マールが微笑む。よかった、まだ好かれている。サビはほっと胸をなでおろした。
「ずっと共にいたいな」
「もちろんだよ」
マールは花が咲くように笑ってサビを力いっぱい抱きしめた。