|零下|
北極狼の幽霊が海に飛び込むとそこだけが凍りつくと言われています
ちょうど氷山の縁から海を覗き込んでいるのを、ラッコたちが気がつき遠巻きに見ています
北極狼の幽霊は海へ身を踊らせました
青い海水に白い毛皮が波打って茶色の瞳も滲みます
まず海底のヒトデを調べてそのままとことこ海の底の暗いほうへと進みます
大きなウミユリをちょっと嗅いで、もっともっと崖をくだります
鯨の骨が見えてきました
すでにサメたちが食べられるところは尽きたようで、骨を食べるもにゃっとした海の虫がたくさん集まり、ところによってはもうそれも終わって貝が細菌を舐めているようでした
そこから北に足を伸ばすと、爪先の海水がとろりとしてきます
ほかの海の部分とちがって闇が揺らめいて、ここには誰もいません
静まり返って耳が痛いようにも思います
うっかり入ってしまった深海エビの死体が腐りもせずそのままぽとりと落ちています
塩分濃度が高すぎる海の底の湖を北極狼の幽霊はしとしと歩きます
冷水湧出域にもう足を踏み入れています
白っぽいチューブワームが上に伸び、まわりに二枚貝が折り重なっています
寂しいけれど賑やかな眺めです
ふと北極狼の幽霊は顔を上げました
鯨の歌がかすかに聞こえます
雪と氷の世界に帰ろうかな、というきもちになりました
硫化水素とメタンの領域を出てぐんぐん上を目指します
真っ赤で小さなエビを鼻先でそっとつつき、七色にきらめくクラゲや自分より大きなイカも通り越して水面が近づいてきました
シャチたちがくつろいでいる横を抜け
北極狼の幽霊はほどよい氷山に飛び乗りました
陸地はきっとあっちのほうですがひと眠りすることにします
おやすみなさい