北の光を辿る犬


|トゲトゲの魚にとげとげの蟹|


シェラーグは不安の濁流に飲まれそうになった時にはいつも海面から遠ざかるようにしています
重く冷たい海水に身を任せて岩の影や鯨骨の隙間でひとねむりするのでした
とげとげで淡い赤の蟹やぎょろりと睥睨する鮫もシェラーグを襲ったりしません
それより浅い海にきらきら光る魚群のほうが怖いのです
光合成のために浮かびあがる必要がありますが、怖いものは怖いのです
深海珊瑚を撫でながらシェラーグはカーモスのことを考えます
そうすると胸のうちがほっと柔らかくなり恐怖が遠のきます

カーモスは毎日海面までひとりで出かけます
まなこやウミウシやイルカが派手に生存しているところへゆくのです
他ならぬ自分のためだと知っているのでいつも申し訳ないような有難いきもちです

「気をつけてね」
逞しい鯨の肋骨を齧りながらシェラーグは手をふりました
そろそろ自分も浅海へ行こうと明日こそは行こうと決心をするのでした
トゲトゲの魚が口先だけさと一笑に付し
とげとげの蟹がまあ明日なら行けるだろうさと苦笑いしました
シェラーグは恥ずかしくなってさらに骨の奥へと身を隠し
しかしこれではいけないと砂を腹ばいにずって熱水噴出孔の傍まで近づきました

「臆病者のシェラーグが来たさ」
チューブワームが囃しました
そこへずかずかユノハナガニがやってきてシェラーグをぐいと押しやりましたので
たいへんに怖いやら恥ずかしいやらで彼は岩から離れ
冷水湧出域へ歩いていきました

「しょっぱくなってしまった」
シェラーグは塩辛い自分をカーモスは嫌がるだろうかと杞憂してみましたが
彼は優しいのでそんなことはするまいと逆に自分を勇気づけることも試しました

窪地を抜けながらやっぱり思いなおしてシェラーグは浮き上がりました
ふわふわ上昇してナガヅエエソを追い越しユメカサゴをそっと避けキヨヒメクラゲとすれ違い
なんとかオウムガイのあたりまで来ました
そしてこれ以上は明日でいいだろうと結論づけ
じっとカーモスの帰りを待つことにしました


1へ戻る
3へ進む

文の一覧に戻る